昭和40年11月24日 夜の御理解
段々、信心の稽古させて頂いて、いよいよ真の信心を目指して、真の信心へ、真の信心へと、信心が進んでいかなければならない。いよいよ、神様にお喜び頂けれるような、信心にならせて頂かなければならない。そういうことがです、私、分からせてもらうということが、第一なんです。「ね」。信心とは、自分の、悲しいとき、人間の力やら、知恵では、どうにも出来ない時に、神様の知恵を拝借したり、または、どうにも出来ない時に、神様の力をもって、おかげを受けるということだけが、信心だというふうなところから、一歩も出ないで終わっていく信心は、私は、真の信心とは言えないと思うんです。「ね」。段々、一遍にというわけにはいけません。けれども、段々、神様に喜んで頂けれる信心。その、神様の喜びが、私共が、また、有り難いと思わなければおられない、喜ばなければおられないというような、おかげになって、その照り返りが、おかげに成って行く。神様と、私共が、一緒に、いわゆる信心共栄とでも申しますかねえ。神様と、私共、人間が、一緒にこの、栄えようという、神様有難うございますと。氏子のおかげでと。いうように、その、そういうその、信心に成って行くことが、真の信心であり、そういう信心の中に、死活を営ませて頂くということが、信心生活だと、こう私は思うですね。
今日、最近はまたこの、御造営のほうへ、皆さん少しこう、おー、現場のほうへ、えー、おい出られる、あちらを担当される方たちの、信心がおだれたような感じがあったけれど、最近また、とみに、こう、盛り上がってきたような。昨日なんかは、四名の方達が、一生懸命、一日、あちらで御用頂いておられます。今日も、三名、丁度、担当の方達が、全部出て、おかげ頂いておられますが、きょうは、安藤さんと、それから、田主丸の山口さん、それから、中野さんが担当でございましたから、三人が出ておかげを頂かれている。帰って、私がここで、お神酒の好きな方にはお神酒を一杯、また、甘いものの好きな方には、まあ、甘いものの一つも出して、ねぎらって、帰って頂くんですけれど、今日は、その、お神酒の好きな方ばっかりだったんですね。それで、私も、ここで、何時もあの、まじめに、まじめっていうか、もう元気同断にあの、山口さんは、自分の出番にだけは出られるんです。けれど、ここまでは、おいでに、出て見えないんです、何時も。ところが、今日は、安藤さんと、あちらで、信心話を一生懸命されて、まあ、意気投合したというでしょうかね、こちらへ一緒に見えられまして、そこで、ここで一緒にお神酒を上げてからの話でした。それでもう、久富先生も夕方からおい出られとったから、まあ、三人で、ここでお神酒を頂きながら、私も、お相伴してるわけではないけど、三人の話を聞いていたわけなんです。そしたら、もう、三人が、三人ともですね、もう、丁度、具合よう、頭のはげた方ばっかりなんですよ。もう、そのはげ具合が、皆よう似とる。私は、前に三人をこう並べて、あなたがたは、はげとる具合が、みんな変わらんが、年配もあんまり変わらんと、そげんとじゃあるまいち、言うてから、いうことからでございました。山口さんの、言われるとですもん。私は、終戦後の、苦労の時分から禿だしたち。みんな、その、禿の由来をその、銘々が話しよりなさいますもん。そしたら、何のことか、ああ、そうそう、今日は、北野の共励会でございます。その共励会に、夕方電話の架かって、福岡から掛かってまいりましてね、高橋さんから、今日は、私と、委員長と、二人で、共励会のおかげを頂きますからと言う電話が架かってきておりました。それで、たまたまその、頭のはげとるという話からでした。本当ですね。その、やっぱり人間はその、深刻な苦しみとか、悩みがあると、頭の禿げたり、頭の白うなったりすると、本当に一遍に、頭が白うなったりというようなことがあります。最近、委員長の頭を見てごらん、あげん白髪が多なったという話からでした。ほんとに、折角ですね、頭が禿げたり、白なったりするのはですね、自分のことの小さいその、苦しみやら難儀やらで、頭が禿げたということじゃつまらんですなあ、ということでした。その点、委員長あたりは、もう本当に、考え出したら夜が眠れんというぐらいにあると、時々申しますけれども、本当に、御造営が始まったらもう、ほんとに、とみに白髪が増え始めておる。皆さん、お気付きになっとるでしょうか。尊いことだと私は思うですね。おなじ頭が、一丁禿るでもです、白髪が多くなるでもです、神様に喜んで頂くようなこと、あの時に、自分の頭が禿げたと、あの時から、自分は白髪が増えたというくらいなです。私は、おかげいただかねば。本当は、自分の身体を使うのも、心を使うのも、物を使うのも、金を使うのも、そういう、神様に喜んで頂くようなことの中からです、「ね」。お役に立たして頂くというものでなからなければ、値打ちはないなというようなことをその、三人のはげ頭の方達が集まって、話をしておった中から私は感じた。
今日、あちらへ出る前に、安藤さんが、ここ二、三日の間に、御造営のことでしょうか、私共のことでしょうかもう、必ずその、御夢の中に先生が現れるなさった言うて、ここで、御造営で顔見知りになった方達が、その、夢の中に出て見えられるんだそうです。ま、いろいろな、本当に深刻な御夢でございました。それはもう、お話をするなら、もう、身の毛のよだつような深刻な話じゃったと言うて、その、お夢の内容がです。そしたらその、二つの御夢を私、取次ぎさせてもらいよりましたらですね、わたくしが、その、長々としたその御夢のお取次ぎさせて頂きよりましたら、そのことに、答のようにして、神様が下さるのが、あの、「冠」。冠の館という字を頂くんですね。こう書いて、元ですね、元を書いた中に寸という字が書いてあるでしょう、を頂くのですよ。ですから、安藤さん、今の御夢のお届けを煎じ詰めると、そのことになるようですよと。ま、この、冠というのは、神様のお守りを受けておるというような、まあ、感じですね。元ということは、元ということ。寸ということは、ま、ちょっとしたことだろうと私は思うと。「ね」。その元は、ほんのちょっとした事なんだと。神様がもう、あらゆる手を打ち、あらゆる面からです、その人一人のことのためにです、様々な、もう、難儀なら難儀ということがあるんだということですよ。いうなら、安藤末男という人を、いわば、真の人にしたいばっかり、おかげを受けたい、広大なおかげを受けたい、受けたいという願い。為には、どうしても、真の人になってもらわねばならん。真の人になって下さる為の、例えば、金銭の難儀でもあろう、おー、人間関係においても、しかりである。みんなその事のためにあるんだという事。もう、これは、信仰のいよいよギリギリのとこ。だからその、分かったような、分からんような、ま、そのことを、今日も、あちらへ行って、山口さんと話されたらしい。中野さんと話されたらしい。「ね」。親鸞上人様が仰られたと。世の中の一切全ての事がです、この親鸞一人のためにあっておるんだと。それは、良きことも、悪しきことも、「ね」。甘木の初代の親先生は、「われ良しと、思う心はあだとして」と仰るようにです。自分というものを中心として、自分の周囲におきてくるなら、起きてくる一切の事柄がです。私が至りませんから。私を磨いて下さる為に。日田の堀尾先生はです、「私一人が、教師になるために、どのくらいの多くの人が、犠牲になったか分からん」と、言うておられます。「ね」。私一人を、神様は真の人にして下さるために、どのくらい沢山の人が、犠牲になるやら分からない。これは、私だけではない、原 正一郎なら、原 正一郎という、その人がです、真の人になるために、神様は、どれだけの材やら、どれだけの人やら、どれだけの問題やらをもって、正一郎を、さ、立派になってくれよ、改まってくれよ、磨いてくれよと仰っておられるか分からない。もう、たった、そのことだけなんだよと、元は。そのこと一切を自分の信心の、根肥しとも、また、向上のそれを、よしなともさせて頂くということ以外にない。ま、大変難しいことでございます。その、難しいことを、私は、平たく、いうなら、只今申しますことだと、こう思うんです。私共が、段々、おかげを頂いて、真の人にならせて頂く。精進努力をさせてもらうと同時にです、私共が、神様にお喜び頂けれるような、氏子とか、または、そういう生活状態に成って行くことだと。「ね」。例えば、そういう意味合いにおいて、お取次ぎをなさる先生方なんかというものは、頭だけじゃありませんよね。もう、体全体、身も心も神様にささげておる。そして、神様がお喜び頂けれる、難儀な氏子を取り次ぎ助けられることのために精進をなさる。実に尊いことなんだ。だから、神様はまたそういう、例えば、その、教師、先生の上に、お徳を下さり、力を下さり、沢山の人が助かっていくための、力、働きというものを、その先生に送ってくださる。こういうおかげになっていかなければならんのだけれども、ほんなら、如何に、私は、御道の教師でございますというて、御道の教師であるからというて、なるほど形の上においては、御結界奉仕が、信心奉仕が出来ておったにしてもです。それが、ほんなら、神様が喜んで頂けるための奉仕ではない、自分の生業(なりわい)のため、いわゆる、生活のために、私は、座っておるというのだったら、神様は、喜んでくださらないです。「ね」。神様のお喜び頂けることのために、世の中の難儀な氏子のお取次ぎ、助けられるためにならば、私がこんなに修行させて頂いても良いと。自分の、いわゆる、我情我欲の一切を放して、信心奉仕をさせて頂くというようなこと。ですからそれは、また、御信者さんの上にも言える。例えば、持田さんが、呉服屋をなさっておられる、原さんが、洋服屋をなさっておられる。「ね」。だからそれが、持田さん、田代さんが一つ、しょう万長者になるために、一丁うんと儲け出さんなっと言うことだったら、こら、値打ちはないということ。原洋服店が、一丁、どうでんこうでん、ま、善導寺一番の洋服屋にならなきゃならんということだけを目指して、よし、善導寺一番の洋服屋になられたって、それは値打ちはないということ。その、なられるというそのことがです、神様にお喜び頂ける様な、なり方でなからなければいけないということ。こうなったら、例えば、御道の教師が、「ね」。一切を奉げてです、難儀な氏子の取次ぎ助けられるために奉仕しているのと、おんなじことなんです、理屈は。ま、大変難しいことのようですけれどもです、そこんところが、一つひとつ、「ね」。頭一丁使うでもです。「ね」。自分の息子のことで、頭使うてから、頭が禿げたというよりもです、「ね」。御造営なら、御造営ということに一生懸命頭を使わせて頂いて、よるも眠らんごと心配させて頂いて、頭がはげた、頭が白なったというようなことに使うということがです。そのことが、神様に喜んでいただくことであり、意義のあることであるということ。これを、神様が、見逃しなさるはずが無い。神様が、喜んで下さらないはずが無い。そういうことになるでしょうが。「ね」。私はあの、信心生活というのはです、「ね」。真の信心とはです、そういうように、私の、一挙手一投足がです、「ね」。神様にお喜びいただけることのために、この、手足が動いておるんだということになってこなければならないと。
昨日は、勤労感謝の日でございましたですね。今日の、漫画に付いてましたですね、お父さんに、あのー、今日は、お神酒をつける。嫁ごさんとその息子が、お父さんの前に出てから、「毎日働いて頂いてから、有難うございます」と言うてからその、お礼を言いよるところが付いておりました。それで、今日は、ビールを一本とって来て、その、お父さん、さあ、今日は、勤労感謝の日だから、ビール上がんなさいと、言うて、それは、みんな自分の懐から出るとじゃけん、もう、気色の悪うしてこたえん。自分が、本当の働きが出来ておらんもんじゃけん、その、嫁ごから、その息子から、そのう、感謝されるとがまあ、しるこ裁きかというごたるふうな感じの漫画でしたけれどね。これは、信心の無い人たちは、やはり、そういうような意味合いにおいてです、年に一辺ぐらいの勤労感謝の日がいろうと思うけれども、私達は、もう、日々です、「ね」。本当の勤労が出来ておるということ。神様に喜んで頂けることのための、手足を動かしているんだ、働かせて頂いておるんだと。今日もおかげを頂きまして、もう、本当に今日は、へとへとになるまで、神様、お使い回しを頂きまして有難うございました。それが、私は、本当の勤労感謝だとこう思うですね。
私は、昨日、もう、本当に私は、重雄さんを試す意味じゃないですけども、昨日、もう、11時ごろ土井の方達が全部、車で一緒にお礼に出てまいられました。もう、本当にへとへとのような状態でございました。それで、遅うまでやって見えとられまして、ちょうど、二階でまあ、美術鑑賞とかなんとか言うてからその、あそこへ、沢山の絵やら、掛け物やらを頂いておるとを、下げて観賞いたしましたが、重雄さんが見えましてから、重雄さん今から、そればやろうと思いよるけん、もう、それこそ、昨日ばっかりはもう、本当に、ご無礼しますと言いなさるごたったろうと、私は思いました。あの、ややこしい軸を、一丁、一丁解いてから、明けられた。それをみんな、重雄さんの手を通さなければ出来ないことじゃないんですけれども、私が、重雄さんにそれを言うた。「ね」。だから私は、もう片付けられるときだけは、もう、今日はやめときなさい、明日、また、見らんなんきん、というて、ま、実は、絵を片付けさせませんでしたけれどもですね。例えば、ああいうように、へとへとにです、例えば、疲れるまでに、あのー、今日一日の、お使い回しを頂いても、ああして、お礼に出て見えておるということがです。勤労感謝でなくてなんであろうかと。どこに感謝するかと。そこまでも、十二分にお使い回しがいただけるということ。「ね」。十二分の働きに、耐えれるだけの肉体、体力というものをです、今日も、十二分に使うて頂いて有難うございましたという事になれば、「ね」。私の、この、力を十分神様の御用にお使い回しを頂いたということ。お百姓なら、お百姓にお使い回し頂いたという事をです、心の底から、今日も十二分にお使い回しを頂きまして有り難うございますという、日々でなからなければならんという事です。「ね」。それが、信心生活だということです。ところが、「ね」。それが、こんしこがつしとけば、幾ら方にになるけんでと、言ったようなことのための、私は、勤労であったら、その勤労に対して、感謝する値打ちは一つも無いと、私は思う。折角お互いが、行じさせていただくところの働きであり、「ね」。使わせていただく金銭であり、使わせて頂くところの物であり、ならばです、それが、神様に喜んで頂く事のために、私は、行じさせて頂けれることを願いとする信心。そういう信心を、私は、真の信心だと、こう思う。わたくし、一日の例えば、今日の働きがです。本当に難儀な氏子の取次ぎ助けることのための、私の修行であったなら、その修行は生きてくる。このおかげば頂かんならんけんというてから、修行したんならば、それは大したことはないということ。今日、私、三人の奉仕をされた方達の頭を眺めてですたい、そんな話をしよんなさるのを聞いてです、「ね」。私は、あの難儀なときに、頭の禿げだしたというような話がです。本当に、椛目の御造営のあのときに、本当に、あの、様々な修行もさせていただいた、心配もした「ね」。あん時、頭を使うた時、あのころから、頭が白うなりだしたというようなです。頭が禿げだしたち、言うぐらいな、頭を使うならば、そういう意味合いにおいて、使わせていただくような、私は、願いを銘々が持たなければいけないと思うですね。どうぞ。